翻訳と辞書
Words near each other
・ アンナ・パキン
・ アンナ・パブロワ
・ アンナ・パヴロワ
・ アンナ・パヴロワ (小惑星)
・ アンナ・パヴロヴァ
・ アンナ・パヴロヴナ
・ アンナ・ヒュブラー
・ アンナ・ファリス
・ アンナ・ファン・サクセン
・ アンナ・フォン・エスターライヒ
アンナ・フォン・エスターライヒ (1432-1462)
・ アンナ・フォン・エスターライヒ (1573-1598)
・ アンナ・フォン・エスターライヒ (バイエルン公妃)
・ アンナ・フォン・エスターライヒ=シュタイアーマルク
・ アンナ・フォン・ザクセン
・ アンナ・フォン・ザクセン (1836-1859)
・ アンナ・フォン・シュタイアーマルク
・ アンナ・フォン・シュヴァイトニツ
・ アンナ・フォン・ティロル
・ アンナ・フォン・デア・プファルツ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

アンナ・フォン・エスターライヒ (1432-1462) : ミニ英和和英辞書
アンナ・フォン・エスターライヒ (1432-1462)[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

アンナ・フォン・エスターライヒ (1432-1462) : ウィキペディア日本語版
アンナ・フォン・エスターライヒ (1432-1462)[ちょうおん]
アンナ・フォン・エスターライヒAnna von Österreich, 1432年4月12日 ウィーン - 1462年11月13日 エッカルツベルガ)は、ローマ王アルブレヒト2世の娘で、テューリンゲン方伯ヴィルヘルム3世の最初の妻。ボヘミア王・ハンガリーラディスラウス・ポストゥムスポーランド王妃エリーザベトの姉である。
== 生涯 ==
ローマ王アルブレヒト2世とその王妃で神聖ローマ皇帝ジギスムントの娘であるエリーザベトの間の第1子、長女として生まれた。1446年6月20日にイェーナにおいて、14歳でザクセン選帝侯フリードリヒ1世の末息子ヴィルヘルムと結婚した。アンナは結婚に際してオーストリア家領の相続権は放棄したが、父アルブレヒト2世が主権を有したボヘミアハンガリーその他の領土については継承権を放棄したわけではなかった。アンナの母エリーザベトは、同族の従姉エリーザベト・フォン・ゲルリッツが1441年にブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)にルクセンブルク公領を売却したことを認めておらず、娘婿のヴィルヘルムを教唆して公領を占領させた。しかしヴィルヘルムはすぐにブルゴーニュ軍によって領外へ追い出された。1457年にアンナの弟ラディスラウス・ポストゥムスが死去すると、ヴィルヘルムはルクセンブルク公を自称した。
その後、ヴィルヘルムは妻を捨てて愛妾のカタリーナ・フォン・ブランデンシュタイン(Katharina von Brandenstein)と同棲し、アンナはエッカルツベルク城(Eckartsburg)に幽閉されて死ぬまでこの城で過ごした。アンナは一度だけ夫に復縁を願いに行ったが、夫から顔に木靴を投げつけられる侮辱的な扱いをされ、即座に城に逃げ帰ったという〔Joseph Chmel, Karl Friedrich Wilhelm Lanz: ''Monumenta habsburgica: Sammlung von actenstücken und briefen zur ..., Volume 1'', S. 80〕。アンナが1463年に死ぬと、ヴィルヘルムはすぐに愛妾カタリーナと再婚した。アンナの遺骸はフリードリヒスローダのラインハルツブルン修道院(Kloster Reinhardsbrunn)に葬られた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アンナ・フォン・エスターライヒ (1432-1462)」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.